「大台ヶ原自然再生推進計画」とエコシステムマネジメント

                                       2005年4月6日
                               大台ヶ原・大峰の自然を守る会
                                        田村 義彦
<要約> 
エコシステムマネジメントの二つの基礎条件である「科学性が確保」できず、「多様な主体の参画」
も担保されていない大台ヶ原自然再生推進事業(2005年1月)においては、エコシステムマネジメン
トは成り立たないと考えざるを得ない。学術調査を実施してデータを蓄積し、多様な主体の参画が法
的に担保された暁に、初めてエコシステムマネジメントが成立するのではないだろうか。
 KW:エコシステムマネジメント・自然再生推進法・大台ヶ原自然再生推進計画・科学性の確保・
市民の参画
【行き詰まった公共事業の「救世主」として登場したエコシステムマネジメント】
 江戸時代後期に構築された官僚機構は、官尊民卑の風潮のなかで国民を蔑視し続けてきたが、突然
数年前から霞ヶ関官僚が「イクォール・パートナーシップ」などと聞きなれない言葉を口にして市民
に近寄って来た。市民はとまどった。いままでアポすら取れなかった霞ヶ関官僚に、突然仲良くしよ
うと言われても簡単に信じるわけにはいかなかった。官僚の突然の変貌の原因は多分外圧であろうと
は予想していたが、柿澤宏昭氏の『エコシステムマネジメント』(2000年・築地書館)によってその
種明かしができた。
 
 柿澤氏は、エコシステムマネジメントは1980年代のアメリカにおいて、「行き詰まった自然資源管
理を打開する〔救世主〕としての期待をもって登場した」と書いているが、日本においては、「行き
詰まった公共事業を打開する〔救世主〕として登場」したと言えるようだ。平成10年(1998年)度の
林業白書、環境白書にエコシステムマネジメントの考え方が環境保全の方向性としてとりあげられ、
河川法・森林法・自然公園法など各法の改正などにつながり、自然再生推進法を生み、各省の再生事
業を支えることになったようである。聞きなれない「パートナーシップ」の生みの親はアメリカの「
エコシステムマネジメント」であったようだ。

 さて、柿澤氏はエコシステムマネジメントに「パラダイム転換を行うための基礎条件」として、 
(1)市民参加、(2)職員の多様性・専門性、(3)科学性の確保、(4)資源管理の主体として
の市民の成長、の四つをあげている。(1)と(4)、(2)と(3)は同じ範疇にくくれるので、「市民参
加」と「科学性の確保」の二つが基礎条件となる。
 一方日本では、まるでそのコピーのように、2002年に成立した自然再生推進法の基本理念に「多様
な主体の連携」と「科学的知見に基づいて実施する」ことが謳われている。また、環境省の個別法に
基づく「自然再生事業の進め方」では、「重要なポイント2点」として「(1)科学的データを基礎
とする丁寧な実施」、「(2)多様な主体の参画と連携が必要」が謳われている。
 そこで、大台再生計画が、果たしてその二つの基礎条件を満たしているのか、考えてみたい。《大
台再生計画の内容は次の三分野から構成されている。「自然生態系保全再生計画(以後、森林と略す
)」、「ニホンジカ保護管理計画(以後、鹿と略す)」、「新しい利用のあり方推進計画(以後、利
用と略す)」》

(1)科学性の確保
 大台ヶ原においてはいままで一度も学術調査が行われたことがない。環境省は、昭和61年(1986年)
から平成15年(2003年)まで18年間、「トウヒ林保全対策事業(後に森林保全対策事業と改称)に約
8億円の経費を投じたが完全に失敗し、関係した研究者は確かな科学的データを何も残さなかった。
2002年に発足した大台ヶ原自然再生検討会は「大台ヶ原にはまともなデータはない」という認識から
スタートした。
 環境省は2年間調査を実施したが、事務局である(財)自然環境研究センターの限られたスタッフ
と短い時間では満足なデータが得られなかった。環境省は計画策定を一年近く延期して調査を継続し
たが、生態系の正確な科学的把握・解析には不充分であった。森林生態系部会もニホンジカ保護管理
検討会も共にデータの評価を先送りした。自ら「科学性の確保」を謳いながら、限られたスタッフと
時間しか用意しなかった環境省の真意を疑わざるをえない。
 データのない大台ヶ原で自然再生事業を行うためには、質量ともに豊富な人材と大学機関の協力を
得て、5年以上にわたる学術調査が必要であろう。エコシステムマネジメントは生態系の持続性を目
的としているといわれるが、大台ヶ原においては生態系解明の入り口で立ち止まった、と言わざるを
得ない。

 その結果、具体的な事業計画を立てることができず、トウヒの発芽の様子を観察する初歩的な実験
計画の作成に止まった。従来、各種審議会・検討会は行政が作成した原案の追認を常とする通過儀礼
であったが、本検討会においては各部会で具体案を作成した部分があったのは事実である。しかし、
遠い将来を見据えた再生計画を責任をもって立てる自信は検討委員にはなかったのであろう。それを
「慎重で順応的な姿勢」と言うのは正しくない。現在の科学の限界、破綻と言うべきであろう。

 発芽環境の観察程度の実験であれば、林野庁に豊かな経験が蓄積されていると思われるが、縦割り
行政の弊害か、環境省は林野庁に協力を求めず、検討会に加わる林野庁もあえてサジェッションを避
け、およそ、造林が専門とは思えない検討委員が実験計画を作った。それが果たして学問的批判に堪
えるものであるのか、関連学会の意見を求めるべきであろうが、例えば本年3月に大阪で開催された
第52回日本生態学会では大台再生計画に関する演題は見当たらなかった。

 バブル崩壊の後、「名前を変えた公共事業」としての自然再生事業を急ぐあまり、行政・法律が先
行したが、それを支える科学的データがアメリカのようには蓄積されていなかったといえよう。生物
のゲノム解析が進み、生命現象の根幹が明らかになる一方で、森林生態系に生きる多様な生物の動態
はまだよく知られていない。例えば、自然再生事業の模範のようにいわれる霞ヶ浦のアサザプロジェ
クトにしても、市民レベルの試行錯誤を学問が後追いしている段階である。学問の未成熟を積み残し
て、行政が「自然再生」の美名の下に突っ走る危険性を感じる。

<エコシステムマネジメント並びに自然再生事業の理念が基礎条件として求める「科学性の確保」は、
大台ヶ原自然再生推進計画においては満たされているとは言えない。>

【自然生態系が科学で解明できるのか・・・】
 ところで、ここまでの議論は、あくまでも「科学」を是認してのものであるが、実は本会は科学が
自然を解明できるとは考えていない。18世紀後半から用いられるようになった「科学」と言う言葉は
、その後、「科学的」と言えばあたかも真理性や確実性の代名詞のように使われるようになり、国家
権力の後ろだてによって優越性、正当性が与えられた。科学が神にかわったといえる。人間の知は常
に未熟であり、不完全であり、科学知をもって自然を理解したと判断することは早計に過ぎると私達
は考えている。
 環境省は自然再生事業の前提として、まず現在の大台ヶ原の生態系が衰退していることを立証しな
ければならなかった。しかし、大台再生計画では、考えられるいくつかの原因を「複合的要因」とし
て列記するに止まって、その相関関係、因果関係を科学的に解明していない。例えば鹿がトウヒを枯
らしたとして鹿の捕殺を始めて3年が経過し、すでに118頭を捕殺して更に今後も継続する計画である
が、その因果関係の科学的立証、捕殺の成果の証明が未だに為されていない。原生的自然の中での動
植物の動態がほとんどわかっていないにも拘わらず、官僚が「生物多様性の保全」を呪文のように唱
えながら「トウヒのために鹿を殺す」という不可解な施策を強行しているのが実態である。鹿捕殺計
画の非科学性については、本会の「残された自然の保全を優先し 何もせずに自然にゆだねるべし」
(2005年2月26日)に詳述しているので省略する。

 (1984年に近畿弁護士会連合会が奈良において第13回人権擁護大会を開催したが、その際、奈良弁
護士会が作成した『大台ヶ原―その保存のためにー』のなかで、「疑わしきは保護する」という判断
原則が打ち出され、その後、大阪弁護士会の山田隆夫弁護士が『自然の権利』(1996年 信山社)に
おいて「開発謙抑の原則」に発展させた。)

【自然の不確実性】
 柿澤氏は生態学の発展がエコシステムマネジメントの登場を可能にしたと書いている。大台再生計
画の検討会メンバーであり日本の保全生態学の第一人者といわれる鷲谷いずみ東大教授(日本生態学
会会長)も所謂古典生態学を批判している(『自然再生事業』2003年・築地書館)。 しかし、市民
の立場からすればこの生態学論争はコップの中の嵐であって、生態系解明にそれほど大きな進歩があ
ったとは思われない。自然は相変わらずわからないことばかりで、驚きと不思議に満ちている。なに
よりも「大台ヶ原自然再生推進計画」の不充分さがその証明である。検討委員が一級の学者研究者揃
いでなかったとはいえ、大台再生計画の粗雑さは未成熟な生態学の限界を示しており、「不確実性」
で言い訳できるものではない。

 柿澤氏はエコシステムマネジメントを実行する備えのいくつかの課題の一つとして「不確実な知識
があっても、次ぎの一歩を踏み出さなければならない・・・適応型管理実行の問題」としている。官
僚は「自然は不確実であり、確かな科学的データを待っていたのでは行政は何もできない」とよく言
うが、それは自然の不確実性を口実にした行政の施策強行を願ってのことで、それを「適応型管理」
というのは正しくない。(柿澤氏が「適応型管理」というAdaptive Managementを日本の官僚は「順
応型管理」という)

【自然再生事業のパラドックス】
 柿澤氏は「パラドックスを超えて」と書くが、少なくとも大台ヶ原においては、科学の歴史よりも
はるかに古くから自ら然るべく天然更新を行ってきた原生的自然を、人間が「すでに天然更新できな
くなった」と断定し、人工で更新をしてやるという自然再生事業のパラドックスは超えられていない。
自然再生事業は擬似自然をつくることであって自然の再生ではない。
 また、鷲谷氏や環境省は自然再生事業の手法として、仮説を立ててそれを検証していくとしている
が、本再生計画では、しっかりした「仮説」を立てることができなかった。したがって、事業計画を
立てられるはずもなく、観察実験計画でお茶を濁し、一年近く遅れて見切り発車したのである。

(2)市民参加
 大台再生計画の調査・検討段階では三部会の一つである利用対策部会に本会が参加し、「マイカー
規制」「利用調整地区」など五項目を大台再生計画に入れることが出来た。しかし、三部会は大台再
生計画の策定を終わった時点で任期が切れた。策定後の事業実施・維持管理段階において多様な主体
との連携・合意形成をどう図るかは未知数であり、市民・自然保護団体の参加は担保されていない。

 又、大台再生計画では「基本的な考え方」として「多様な主体の参画」を謳ってはいるが、森林・
鹿・利用の三分野において、今後、再生協議会への市民参加の可能性があるのは、利用計画の中の二
つの課題に過ぎない。他の事業はすべて従来通り環境省官僚だけで実施できるわけである。これは、
個別法で自然再生事業を実施している国交省、農水省などにおいても同様であろう。 

 自然再生推進法では、行政の承認が必要であるにしても、手を挙げた市民が自然再生協議会へ参加
できることが法的に担保されている。他方、「個別法に基づく自然再生事業」では市民参画が法的に
担保されていない。この違いは大きい。巷間「自然再生事業」という言葉が氾濫しているが、自然再
生推進法に基づく場合と、一般名称として使用される場合の内容が大きく異なることは全く知られて
いない。何故か、環境省はじめ国交、農水各省はその違いを明らかにしようとしない。むしろわざと
曖昧なままにしている様にすら感じる。市民参加を装いながら、実際には従来通りの密室行政を行お
うとする衣の下の鎧が垣間見える。

 一方、市民の側をみれば、戦後60年、民主主義は未だ未成熟のままで、衆愚政治の中で自立した市
民が社会的発言、行動をほとんどしない閉塞状況では、例え、市民参画の可能性があったとしても、
果たして行政と対等に責任ある提言、行動ができるかどうか極めて疑わしい。市民が参加すればいい
という問題ではない。近年、雨後の筍のように輩出したNPOは、僅かな補助金ほしさに行政ににじ
り寄るばかりで、ここでいう「市民の参加」とは無縁のものである。曽根綾子が1997年に「・・今や
NPOは、専門職でもない、アルバイトでもない、奉仕でもない、という不気味な素人集団を生温か
く食わせる温床になりかねない。二十一世紀には、そうした「ボランテイア業」が流行しそうな予感
もする。」と書いているが、残念ながらその予感は的中した。本音では軽蔑、嫌悪する市民を利用し
ようとする官僚と、それに媚びる不気味な素人集団とのいかがわしい相姦図が現在の実態ではないだ
ろうか。

 未だに官尊民卑の風潮が根強い現状では、市民参加を官僚が本音で考えているとは思えないし、官
主導に馴れきった市民の側も本気で市民参加を願っているとも思えない。到底、「協働」などが望め
る状況ではない。西欧諸国と日本との絶望的な違いではないだろうか。
 官僚の側が、官僚である前に一人の市民であるという自覚をもち、行政の提案は市民の提案と対等
な「提案の一つ」であるいという認識を持ち、市民の側も行政と対等に論議できる専門性と責任の自
覚を持たなければ、真の「協働」など百年河清を待つに等しい。

<エコシステムマネジメント並びに自然再生事業の理念が基礎条件として求める「市民の参加」は、
大台ヶ原自然再生推進計画には担保されていない。>

 エコシステムマネジメントの二つの基礎条件である「科学性が確保」できず、「多様な主体の参画
」も担保されていない大台ヶ原自然再生推進事業においては、エコシステムマネジメントは成り立た
ないと考えざるを得ない。学術調査を実施してデータを蓄積し、多様な主体の参画が法的に担保され
た暁に、初めてエコシステムマネジメントが成立するのではないだろうか。現状では、日暮れて道遠
し、の感を否めない。
                                           以上