◎◎ 和佐又山・笙ノ窟谷に古道を求めて ◎◎


                            文:田村 義彦 写真:森本 幸治

【地元の困惑と環境省の方針】
 ここ数年、和佐又山の底無井戸付近で観光登山者の滑落死亡事故が2回発生した。他にも滑落転
落事故は多発している。その都度動員される地元から環境省に対して登山道整備の要求が出された。
環境省は昨年(2006年)11月に現地説明会を開いて関係者の意見を聴取し、検討した結果、
本年3月、「現地は特に急傾斜ではなく、歩道幅50cmが確保されている。事故は体力の衰えな
ど登山者側に原因があって登山道の整備によって完全に防ぐことはできない。注意喚起を目的とし
た標識類の整備によって適切な情報提供を行い、経過をみる。」との方針を決めた。
<大峰歩道第2回現地説明会報告「環境省の模索と決断>
 
【納得できない岩場ルート】
 その機会に、森本幸治さんと一緒に初めて事故現場周辺を歩いた。<和佐又から無双洞を歩いて
・・・> 転落場所と思われる底無井戸上部では踏み跡が交錯していた。その下の岩場では同じ場
所に鎖、ロープなどが3本も設置されていたが、長さが足らないために登山者はかえって不安定に
なり、ルートもはっきりしない。数ヶ所で新旧のルートが交錯している。アンカーや手すりの鎖の
設置など登山技術、登山者心理を知らない工事に思えて納得できなかった。

【1300年前から在った笙ノ窟への2本の古道】
 事故現場から標高で250mほど上の稜線に高名な笙ノ窟がある。不動明王の青銅像がまつられ
る修験道の行場七十五靡の一つで、役ノ行者をはじめ多くの名僧たちがこもって行をしたと伝えら
れている。そして、その僧たちの食糧、日用品などが下流の天ヶ瀬から村人の背で運ばれていたと
いう。となれば、村人が重荷を背にこの岩場を登降したはずがない。岩場を避けて、尾根のどこか
に古道があるはずだ。その古道を見つけて登山道に復元できれば遭難事故は防げるのではないか、
と考えたのが古道探索の発端であった。
 笙ノ窟は平安時代初期の800年代に修行の聖地として確立したといわれているが、古道は笙ノ
窟の兵站ルートにとどまらず、山上ヶ岳、吉野山、伯母谷に通じる最古の道である。南北朝時代に
大塔ノ宮が吉野から熊野へこの道を落ちたと伝えられている。鎌倉時代、義経もこの道を吉野から
南方に逃れたという。
 
 2005年に私家版『ふるさと 天ヶ瀬』と題する豪華本を出版した西原在住の岩本速雄氏は「
南北朝時代の1390年頃の590年間の天ヶ瀬は、現在の天ヶ瀬の在所より上流の新田、坂本あ
たりが中心であって」、古道は「坂本あたりから恵山を通り、和佐又山の脇を通過して和佐又谷奥
の鞍部からワサビ谷に下り、伯母谷か大迫の里に至ります。この道は、笙ノ窟の物資の運搬にも利
用されていました。」と書いている。即ち、当時の古道は笙ノ窟谷上部にはなく、和佐又山の尾根
道を通っていたのである。
 
 岩本氏は更に「室町時代の1400年代から昭和末の1980年頃まで580年間の天ヶ瀬は、
前期天ヶ瀬から除々に現在の在所に中心を移したと考えられ」「天ヶ瀬から笙ノ窟への登山参道は、
天ヶ瀬の西側の天ヶ瀬谷を渡り、更に向谷という枝谷を渡ったところに入口があり、天ヶ瀬の山頂
を経て高田和谷の稜線をつたい小柄の森から和佐又山の西側を通り笙ノ窟に登った」と記している。
村人の住居の移動にともなって古道も変っているが、共に和佐又山の尾根道を通って、現在登山道
が在る笙ノ窟谷は通っていなかったのである。
 
【昭和初年に開かれた古道】
 それでは、現在の和佐又のコルから無双洞に至る登山道は、いつ、誰が作ったのか、という疑問
が当然わいてくる。ところが、その前に、更にもう一本、古道があったのだ。
 資料によれば、無双洞、底無井戸は昭和2年に西原の岩本巌氏らが伐採の途中に偶然発見し、そ
れを結んで天ヶ瀬と奥駈道とをつなぐ道が開かれたという。「この道は五万分の一地形図にも記入
されたが、その後戦争による登山路の荒廃のため人通りが絶え、今日におよんだ。」と昭和38年
9月発行の奈良山岳会会誌『山上』第11号に記されている。
という。
 また、昭和9年に発行された名著『大峰山脈と其渓谷』には「大普賢岳迄谷通り登れる様になっ
たのは無双ノ洞、底無しの井戸などが発見されて以来のことである。それ迄は和佐又山を越える尾
根筋に路をとって居た(此の路は現在は全くの廃道となって居る。)新しくつけられた谷通り登る
路も所々壊れては居るが、ずっと判り易く、惑らはしい所は一つも無い。」と正確に記されている。
ただ附図には底無井戸からトラバースして無双洞に至り、そこから水太谷右岸を下る道が記載され
ている。

 更に、住友山岳会が昭和7年に発行した労作『近畿の山と谷』には「地図上の点線路の外に、底
無井戸、無双ノ窟を経て天ヶ瀬橋に下る新道が開かれて居る。」と記されている。「地図上の点線
路」とは大普賢岳から和佐又山に至る尾根道であって、「新道」は『大峰山脈と其渓谷』と同じ道
であろう。
 更に、上記の『ふるさと 天ヶ瀬』所載の地図「天ヶ瀬付近 集落跡と古道」にも笙ノ窟谷に道
が記載されているが、ディフォルメのせいかもしれないが、上部で水太谷にトラバースしている。
また、発行日の記載はないが上北山役場発行の「吉野熊野国立公園登山図」には笙ノ窟と無双洞を
直接結ぶ道が記載されている。
 このように部分的に整合性に疑問が残るにしても、昭和初年に笙ノ窟谷に新しい登山道が開かれ
たのは確かである。

【地形図に残る点線路の古道】
 そこで、手元にあった昭和42年測量の5万分の一地形図をみると、確かにこの道が記載されて
いた。点線路は笙ノ窟西端の標高1500mのコルから笙ノ窟谷右岸の九助ノ尾と呼ばれる広い尾
根をまっすぐ南下して、底無井戸を経て標高750mで水太谷に出合い、天ヶ瀬に下っている。各
地の古道が沢筋の危険を避けて尾根筋にルートをとってきたことを思えば、谷の中とはいえ、広く
て傾斜のゆるい尾根筋が選ばれたことは古道の常道として納得できる。ただ、尾根の上部は傾斜が
ゆるいが、下部はかなりの急傾斜なので、先人は重荷を背に汗を流したであろう。
「五万の地形図」によれば、水太谷との出合いは無双洞より標高で150m下の地点であるが、そ
こから無双洞へ行く道も作られている。ただ、無双洞と底無井戸を横につなぐ道はないし、七曜岳
への道もない。
 一方、上北山村役場が昭和46年7月に調整した「上北山村全図」によると、和佐又のコルから
無双洞を経て七曜岳に至る道が記載されているが、「五万の地形図」の点線路は消えている。とい
うことは、九助ノ尾の古道はこの時点ですでに廃道になっていて、岩本新道(?)がその後で作ら
れた、ということであろうか。

 思えば昭和30年代後半に笙ノ窟まで1時間で登れる和佐又スキー場まで車道が通じたために、
和佐又山の2本の古道と、九助ノ尾の古道も、共に兵站ルートの使命を終わり、草の中に没してい
く運命にあったのであろうか。
 1300年前の古道を探す夢は消えたが、昭和初年に開設されて今は踏む人もいないと思われる
九助ノ尾の古道を求めて、再び森本幸治さんを煩わせて4月20日に和佐又に出かけた。はるか遠
くに見える弥山の稜線は前日の春雪で白く覆われていたが、和佐又のコルから笙ノ窟に登る稜線に
も日陰に僅かに残っていた。

朝日窟付近から大峰主稜線を望む。

【スズタケの一斉枯死とキハダの剥皮】
 尾根道の東側斜面のスズタケが一面に枯死していた。環境省は最近、鹿がスズタケを食べて枯ら
したかどうか「「現段階で必ずしも明確になっていない」と公式に答えた。
 一方、西側の笙ノ窟谷源頭部では、広範囲にわたってキハダが選択的に剥皮されていた。それも
昨日か今日のことである。筆者の常備薬・陀羅尼助の主成分であるだけに、鹿たちの間で何かあっ
たのか気になった。主成分のベルベリン含量は根部・根頭部が最も多いといわれているが、そのあ
たりが剥皮されている木が目立った。また、3〜6月が最高値なのでそれも関係しているのであろ
うか。鹿は意味もなく齧っているのではないであろう。族大学教師達は全く科学的根拠なしに鹿に
冤罪をかぶせてきたが、ウソをつくのはいい加減にして真面目に真実を追求してもらいたい。閑話
休題

尾根道の東側斜面のスズタケが一面に枯死

剥離されたキハダ

【地形図の点線路ではない登山道・・・】
 さて、目指す古道は笙ノ窟の西端から下る。ところが、道は地形図にある尾根道ではなく、笙ノ
窟谷源流部の広い樹林帯の中を、大きくターンを繰り返して九十九折に続いていた。道幅は人一人
が通れるだけ。セメントも使わず、過剰な工事もせず、人が歩くために必要な最小限度の道である。
ふりかえると、指弾ノ窟、朝日窟、笙ノ窟、鷲ノ窟と続く岩壁群が圧倒的な迫力で頭上にのしかか
ってくる。明るく広い谷あいから巨大な岩壁群を仰ぎ見るコントラストが妙である。

人が歩くために必要な最小限度の道を作った先人の智慧がしのばれる。

 ところが、この道は地形図の点線路ではない。観光ガイドブックのなかに、この道を岩本新道と
書いているのがある。1300年前の修験道の古道に比較すればこの道は確かに「新道」であった
であろうが、昭和初年に開設された九助ノ尾の道が戦時中に荒廃したために、戦後「岩本氏」が改
めて作ったのが現在のこの道であろうか。尾根を捨てて谷につけられているのは古道の常道に反し、
「新しいもの」を感じる。この道は4本目の古道ではなく、まさに「新道」である。
 天ヶ瀬在には岩本姓が多い。当時を知る人は今はいないと聞いたが、地元の資料を掘り起こして、
この新道の開設年月日や命名の由来がわからないであろうか。

【家族向けコースの情報提供を】
 それはさておき、和佐又のコルから笙ノ窟に登り、この道を下って和佐又に帰る周回4時間のコ
ースは、子供連れの家族山行として、落葉樹林の逍遥を安全に楽しめる最適のコースである。登山
の喜びとは無縁の鉄梯子登りで大普賢岳を往復する愚かさに比べて、自然の素晴らしさを満喫でき
る有益なコースである。和佐又を訪れるキャンパー達にもっと歩かれていいのではないか。
 底無井戸・無双洞を「世に出そう」と志した地元の熱意は、最初に戦争で挫折し、二度目は観光
登山者の軽率な行動によって事故処理に迷惑するという皮肉な結果を招いた。底無井戸や無双洞の
宣伝など止めて、このルートの情報提供をしてはいかがであろう。

【昭和30年代後半につけられた現在の登山道】
 ところで、技術も体力もない軽佻浮薄の観光登山者の滑落事故多発で地元が辟易している和佐又
のコルから無双洞に至る現在の登山道はどうしてつくられたのか。
 昭和30年代初頭、奈良山岳会が天ヶ瀬川上流一帯の登山ルートの開拓を考えはじめていたが、
ちょうど昭和32年に和佐又山スキー場開設が決定したので、協力して「いよいよ無双洞を世に出
すこと」になったという。36年に堀内保氏が無双洞に入って主要部の平面図を作成し、「和佐又
スキー場関係者の努力により、探勝路が開かれた。」という。その探勝路が現在、和佐又のコルか
ら無双洞に至る登山道であろう。無双洞から七曜岳への道もこの頃開設されたと思われるが、当時
を知る村人はいまは居ない。登山道は以来、天ヶ瀬財産区で維持管理されてきた。

【新しい巻き道を求めて】
 笙ノ窟から標高差200mを1時間かけてゆっくり下って、和佐又のコルから無双洞に至る道の
中程で合流した。そのあと、底無井戸の上部まで行った。環境省の検討案は岩場を小さく巻いてい
るが、筆者は岩塊全体を大きく巻けないかと考えていたので、すこし歩き回って様子をみたが、時
間切れで次回に廻した。いまとなれば古道復元ではなく巻き道の探索になるので視点を変えざるを
得ない。しかし、九助ノ尾にあるはずの古道探索の宿題が増えた。閑を見つけて、まだ何度か通わ
なければならないようだ。(未完)
                                     2007年5月15日