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やはり官僚の“揺り戻し”なのか!

―― 国交省、環境省官僚の反動化に想う ――

田村 義彦

 かなり旧聞に属するが、2008年6月30日に開催された淀川水系流域委員会(以下流域委員会)第81回委員会を傍聴した。
 流域委員会は一次・二次の7年間にわたって国交省が諮問した「淀川水系河川整備計画案」の審議を重ねた。4月には「4ダム建設は不適切」の中間意見書を出し、見直しを求めつつ8月末の最終意見書提示に向けて、残された課題について鋭意審議を重ねていた。ところが、「見きり発車はしない」と言っていた国交省が、突然6月20日に整備計画案を策定し、関係機関に提示した。
 メデイアは「諮問機関の反対意見無視」と大きく報じた。宮本委員長は抗議文を提出した。(本HP別掲)そして、この緊急事態を受けて6月30日に第81回委員会が開催されたのである。

 国交省は、もう済んだと判断したのか、毎回必ず出席していた局長、部長が欠席していた。
 因みに、環境省近畿地方環境事務所長は昨年赴任して以来、大台ヶ原自然再生推進計画評価委員会にただの一度も出席しなかった。無責任ではないかと意見書を提出したが、初めて出席したものの回答はなかった。委員会設立以来7年間、歴代の4人の所長は現地、遠隔地を問わず可能な限り出席してきた。現在の所長にとっては、国交省の局長同様に、大台ヶ原自然再生計画が策定された以上、“済んだこと”なのであろうか。

 さて、この会議で、宮本委員長が「国交省の河川管理者は流域委員会に今後何を求めるのか」と糾したのに対して、国交省は「当初、委員会に求めたのは二つである。一つは「計画案について意見」であるが、計画案が策定され た以上、これ以上流域委員会の意見を要請しないし、計画案に反映できない。もう一つの「進捗状況の点検」についてはスケジュールその他全く明確でない。」と答えた。
 予算概算要求に間に合わせるための見切り発車にしても、委員会無視、住民無視が許されるはずがない。翌年に延ばせばすむことだ。この見切り発車では、いままでの審議もこれからの審議も意味がないことになる。

 会議では今後の委員会のありかたについて率直に議論されたが、宮本委員長は「この状態で止めるべきではない。委員の任期は来年の8月まである。残された論点をとりまとめるべきだ。しかし、そのために税金を遣えない。手弁当で、公開でやろう。社会がそれを求めている。」と論議をしめくくった。その後、手弁当の作業部会が継続していると信じる。

 ところで、国交省のこの姿勢と同じような環境省の“反動化”について、私は2006年頃から本会HPに度々書いてきた。例えば、

  • 緊急報告 市民参画・情報公開の重大な危機
  • 環境省は市民参画を拒否して何処へ行くのか
  • 市民委員を排除したニホンジカ保護管理部会の運営に抗議する
  • 環境省の過去の事業について、環境省職員に向かって自然保護団体からする説明
  • 近畿地方環境事務所長が大台ヶ原自然再生推進計画評価委員会関連の各種会議にすべて欠席なのは評価委員会蔑視ではありませんか
  • 『“新しい風”を止め、逆風にするのか・・』 など。

 ところが、8月1日の朝日新聞が「混迷の計画 淀川ダムを問う 大戸川異例の再転換」と題する連載記事を掲載したが、そのなかに、私の危惧がひとり私だけの杞憂でないと思われる記述があったので、引用(太字)したうえに私の想いを加筆する。

 「97年、長良川河口堰(三重県)建設への激しい反対運動を教訓に河川法が改正される。「住民参加」「環境重視」という新しい理念が盛り込まれた。これが河川行政の一つの転帰となる。01年、近畿地方整備局の諮問機関、淀川水系流域委員会が発足。住民自らが委員として参加し、徹底した情報公開に取り組んだ。00年に鳥取県は県営ダム建設を中止し、長野県では01年、田中康夫知事が「脱ダム」を宣言する。
 だが、06年、長野は新知事に代わり、脱ダムを撤回。今年6月、近畿地方整備局は4ダムを計画案に盛り込んだ。反対運動を受けながらも、九州最大級の川辺川ダム(熊本県)は治水専用に用途変更が検討され計画が進む。」

 90年代の終盤に、それまでかたくなに市民の意見を拒絶してきた霞ヶ関官僚が、突然、各省足並みをそろえて法律を改正してまで “市民参画”“環境重視”を言い出したが、その理由が、実は今に至るも私には納得できていない。勿論論文ではないこの短い記事に記者の想いが正確に表現されているとは思わないので記者の揚げ足をとるつもりは更々ないが、「長良川河口堰建設への激しい反対運道を教訓に河川法が改正され」「河川行政の一つの転帰」となったというのは自然保護運動の誤解、過大評価ではないかと、当時自然保護運動の渦中にいた者として考える。

 環境省の場合は、全国自然保護連合との関係が80年代に悪化して絶縁状態になったが、自然保護運動も衰退の一途をたどったので官僚に変貌を迫る力など全くなかった。

 ところが、2001年に突然、近畿地区環境対策調査官事務所が大阪に開設され霞ヶ関の課長補佐クラスの若手官僚が赴任した。そして翌年には「市民・NGO/NPO/企業・地方自治体及び環境省との連絡会」が設置され、「環境パートナーシップ推進の三つの原則」として(1)対等・平等の関係 (2)情報の共有と意思決定への参加 (3)公平な役割分担が提示されたが、それが国民を蔑視する官僚の本心とは到底思えず、官僚豹変の謎は深まるだけであった。
 辻田啓志氏が主催する琵琶湖自然観察会で、当時淀川工事事務所長であった宮本氏に官僚豹変の理由をしつこく尋ねたが、立場上、口は固かった。今に至るも官僚変貌の謎は解けないが、いまのところ、私は次の様に考えている。

 アメリカでは戦後先鋭化した環境保護運動と木材伐採に依存してきた山村住民との対立が激化して「開発か保護か」に二極化していった。その膠着状態打開の切り札「救世主」として合衆国森林局が基本方針に据えたのが「エコシステムマネジメント」であった。1993年に発足したクリントン政権が新しいパラダイムとして積極的に受け入れた。エコシステムマネジメントの「パラダイム転換のための基礎条件」は、「市民参加」と「科学性」と「順応性」であった。

 日本の官僚は、行き詰まった公共事業を打開する「救世主」としてとびついた。1998年度の林業白書、環境白書では、「エコシステムマネジメントの考え方を新しい森林経営、環境保全の方向性」としてとりあげ、その考え方で環境アセスメント法、河川法、森林法を改正し、自然再生推進法を作った。その中心理念は「市民参画」「科学性」「順応性」で、エコシステムマネジメントの完全なコピーであったが、官僚の本心ではなかったのである。

 そして、このコピーの背後にあったのが、アメリカ政府の日本政府に対する所謂「年次改革要望書」といわれる「日米規制改革および競争政策イニシアチィブに基づく日本国政府への米国政府要望書」である。周知のことなのでここでは詳しく書く必要はないが、小泉・竹中によって日本の金融、会計、経済、司法、教育、医療、環境などあらゆる政策が攻略されていった。

 政治家はこの“外圧”に屈したが、長い官僚支配に君臨してきた霞ヶ関官僚は屈しなかった。僅か10年で彼等は復権に動きはじめた。それが流域委員会の審議無視である。環境省も同様である。その官僚の変貌をどう表現すれば適切なのか知らないまま、反動化とか復権、逆風などと表現してきたが、この記者は「揺り戻し」と表現した。表現は違っても想いは同じである。

 「国交省内で変化が起きているのか。河川法改正を手がけた当時の旧建設省河川局長の尾田 栄章氏(67)はこうみる。
 「改正当時は、若手を中心に熱い議論を交わした。河川管理に新しい道を切り開く『社会実験』という意識だった。改正法は先進的だが、現場では住民との合意形成に時間がかかる。このため、強い権限を持っていたかつての河川行政への揺り戻しが起きているのではないか」

 「変化」は国交省内だけで起きているのではない。書いてきたように環境省内でも起きている。
 「社会実験」とは行政が新しい政策を実行する前によくやるテスト、正に実験であるが、河川法改正に関わった官僚の問題意識がこの程度であったことを知って愕然とした。市民を蔑視、拒絶してきた官僚にとって市民参画・情報公開は実験ではなく、コペルニクス的変革、革命のはずだ。かりに実験に過ぎなかったとすれば、官僚は意に満たなければ簡単に実験、テストを中止すれば済むが、流域委員会の審議無視はそれだけの意味だったのか。市民が受けた衝撃はそんな小さなものではない。
 大台ヶ原で市民参画、情報公開を積極的に進めたある所長は、当時「もはや時代の流れをかえることはできない」と言った。しかし、いま官僚は時代の流れを戻そうとしているのであろうか。

 また、「時間」がネックでもないであろう。官僚が本心から誠実に「合意形成」を求めれば、時間をかければ解決できる。本音を偽って建て前で住民参加、合意形成を装って、それができないのを時間のせいにするのは市民に対する愚弄であり、責任を転嫁する卑劣な言い分だ。

 戦後60年以上経っても民主主義は未だに未成熟であり、自立した市民は育たず、行政に媚びる市民、NPOしか存在しない現実を冷視した官僚が、再び官僚支配を志してきたのか。宮本委員長は、絶望する私に向かって、「これからですよ!」と言った。本当に、そうであることを願う。しかし、傲慢な所長に率いられた環境省近畿地方事務所に、私は何を期待すればよいのか。

2008年8月9日


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